Ume’s Short Stories:8

帰還

 

繁栄と栄光に包まれているはずであった未来。愛情と信頼に導かれるはずであった未来。そして、今では幻想となりはてた未来を思う男が一人、夜道を歩く。

男の胸中を去来するのは、かつてその心を一分のすきも無く埋めつくしていた、幸福な日々。今となっては決して戻らぬ、もうそのかけらすら残っていない喜びに満ちた日々。 男は、記憶の奥底に散らばった、その、喜びの断片を拾い集め、ひとつひとつをゆっくりと、そして大切に思い出しながら、つらい現実の待つ場所へと向かって歩く。

厳しい一日を終えて疲れきった体を運ぶ足どりは重い。同じ方向へ歩く者は他にも大勢いたが、彼より歩みののろい者はいない。そして、彼ほど苦悩に満ちた表情をしている者もいない。

どうしてこうなってしまったのか。いつから男の思い描いていた未来への軌道が大きくずれてしまったのか、男は鈍くなった思考を賢明に働かせてみる。

自分の選択が間違っていたのだろうか、と男は考える。しかし、男はこの道を選んだ日のことを確かに記憶していた。あの日、男は迷うことなく、こう決断したのだ。この道だけが自分にとっての正しい道だ、これ以外の運命など決して考えられない、と。絶対の確信をもって選択した道を歩んだ結果がこのざまか。男は苦笑した。力無く。

いつのころからか、徐々に、しかし確実に自分を包囲していた絶望という二文字が、いつのまにか男の頭の中に居座っていた。男はそれを追い払おうともせず、歩く。ひたすら歩く。

男の心の中にあるのと全く同じような、茶色の雲が空を覆っている。その雲の上には本当に美しい星が輝いているのだろうか、と疑問を抱かざるをえないほどに、その汚らしい茶色い雲が男の頭上に横たわっている。

男は一瞬、その雲の遥か上空に存在しているはずの星々に想像をめぐらす。

夜空に美しく輝く星にも人が暮らしているのならば、きっと全ての人々が幸せに違いない。間違っても自分のような、いつのまにか、気づかぬうちに不幸に転落するような愚かな人間はいないはずだ、と。

くそ、確かに俺は転落した愚かな人間だ。でも、またはい上がることだってできるはずではないのか。そして彼らと同じように、幸せに暮らすこともできるのではないか。

雨が降ってきた。まるで男に芽生えた感情を打ち消すように。

男はあるかどうかもわからない世界の想像から我にかえった。一刻も早く進まなければならない。必要な食料を手に入れ、「家」に戻らねばならない。それが自分の果たさなければならない役目。かつてはその行為に喜びを感じたが、今となっては単なる義務、いや、むしろ苦痛だった。

しかし、と男は思う。さっきの、想像でしかないはずの理想の世界の人々の、幸福に満ちた姿が、いきいきとした表情が、男の、いつものあきらめだけの考えを払いのけた。いつもはそれ以上進むことのない考えが今日に限って発展したのは、共に戦った仲間とあげた祝杯の酔いのためなのかもしれないし、毎日積もりに積もった感情が、行動に向けて目覚める時期になったからなのかもしれなかった。

理由は何であれ、男の思考はより強くなる雨などには一切触れず、自分自身の存在理由だけに集中した。

そうだ、俺は何を恐れているんだ、俺だって人間だ、生きているんだ。毎日最低限の喜びも味わえないなんておかしいじゃないか。俺だって好きなように生きたい。

男はこれまでの、沈み切った、何の可能性も追及しようとしない生き方がどんなにばかばかしいかを思い知った。そして、これからは自分の理想を追い求めよう、決して妥協はしないで生きよう、と決心した。

男の動きは突然力強く、自信に満ちたものとなり歩幅も大きくなった。男は手初めに、いつもの倍近い食料、それも男の好みのものばかりを手に入れた。「家」の要求通りのものしか手に入れず、自分の好きなものさえ食べようとしなかった今までの生活を恥じた。普段はほとんど飲みもしない酒もたっぷりそろえた。一大決心に対しての、これから大きく変わる、自分に対しての祝杯をあげるつもりだった。
今や男にとって、大量の酒の重さも、頭上を覆うどんよりとした雲が降らせる雨も、なんでもない存在だった。雲の上の彼方の星に暮らす、平和な人々と友人になった気さえした。

やがて男は「家」に到着した。男はいつもとは全く違い、力強くドアを開け、中に入った。

すると、奥からいつもと同じ、邪悪そのものになり果てたとしか思えない女が、その、遠い過去に写された写真の人物とはとても同一人物とは思えぬほどに醜く変貌した姿を、のそのそと不気味に見せた。その女は男の両手に下げられた大量の荷物を見るなり、叫び出した。

「なによ、それは。なにそんなに買い込んできたのよ。いつもより遅いと思ったら、あんた飲んできたんでしょう、わかるのよあたしには。あんたすぐに赤くなるんだから。あら、あんたずぶ濡れじゃないのよ。だめよ、そんなんで同情させようたって。まったく、みっともないったらありゃしない。だいたい安月給のくせに飲んでくんじゃないわよ。まっすぐ帰ってくれば濡れなくてすんだのよ。ばかじゃないの。どれ、買ってきたもん見せてごらんなさいよ」

男が口を開けるまもなく、女は丸太のような腕で荷物を引っつかんだ。

「まあ、驚いた。なによこれは。こんなに酒買い込んでどうしようっていうのよ、宴会でも始める気?あらいやだ、あたしの頼んだお菓子が入っていないじゃない、何なのよ、余計なものばかり買って。あ、これ全部あんたの好きなものばかりじゃないのよ、一体何様のつもり?」


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