Ume’s Short Stories:5
東の窓の彼女
ある晴れた日曜の午後、僕はすっかり散らかってしまった部屋の掃除に取りかかった。ここしばらくは仕事が忙しくて片付ける時間もなく、僕の部屋は「足の踏み場も無い」という状態に近かった。僕は流しの食器を洗い、ゴミをまとめ、去年から作りかけのままのジグソーパズルをそっとわきに置いてから布団を干した。そして掃除機をかけようとしたとき、部屋の端の方に、開いたままの雑誌があったのでそれを手に取り、開いている占いのページの、自分の運勢のところだけを何となく見てみると、『理想の異性に出会えるかも。東に要注意』とだけあった。僕はその雑誌をさっきまとめた古雑誌と一緒にしてから、掃除機をかけた。
ひと通りの掃除を終えた僕は、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを作った。そして、テーブルの上に飾ってある写真の美佐子と一緒に、ラジカセでクイーンのテープを聞いた。僕はふと、一年間ほったらかしのジグソーパズルの続きをやろうかとも思ったが、以前のように、美佐子と二人でなければやる気にはなれなかった。
久々の暖かい太陽のおかげで、今夜はふかふかの布団で眠ることができるな、と思ったとき僕は、東側の窓の掃除を全くしていないことに気づき、コーヒーの残りを飲んでから、長いこと閉まったままだった雨戸のほこりをふき、ガラス戸を雑巾で磨いた。
これでようやく終わったという満足感に浸りながら僕は、二杯目のコーヒーを飲んだ。 『要注意』扱いの、きれいになった東側の窓からは、道路を一本隔てた比較的新しそうな、七、八階建てのクリーム色のマンションが見えるだけだった。
夜、東の窓から空を見上げると、夜空に散らばった雲のあいまに星が見えていた。真正面を見ると、マンションの踊り場にぽつんと女性がいて、空を眺めていた。その髪の長い女性の横顔は、何となく寂しそうだった。
これがあの占いにあったことなのかな、と思ったが、すぐにその考えは頭からどけた。確かに、久しぶりに開けた東側の窓の向こうに、髪が長く、寂しそうで、どことなく虚ろな雰囲気のする、僕が今まで何となく描いてきた女性のイメージそのままの女性がいた。でも、彼女とは挨拶さえしていないから、とても『出会い』とは言えないじゃないか。 それから何日間か同じような夜があった。僕が眠れない夜に、ふと東の窓を見れば彼女は、寂しそうに空を眺めていた。
ある日、会社でちょっとした失敗をしてしまい、後片付けに時間がかかってしまった。「ちゃんとチェックはやった?」一緒にやっていた同期の友人が僕に聞いた。「もちろん、やったさ」と僕は答えた。しかし彼は「でも、それなら何であんなに抜けていたんだ?」としつこく聞いてきた。「わからないよ。でも、とにかく二人でもう一回全部やり直して、正しいものを無事に提出できたから、それでいいじゃないか。何か不都合でもあるの?」
実際僕は、彼が僕のチェック用として作った書類の問題に気づいたが、それは口に出さなかった。彼だって、間違ったものをわざと作ったわけではないのだ。それに、彼は今日、彼女と約束があったらしい。夕方、彼女の会社に電話をして、しきりにあやまったあげく、向こうから一方的に切られてしまったのを僕は見ていた。せっかくの金曜日のデートをつぶしてまで一緒にやってくれた彼には感謝していたが、次の一言で僕はひるんでしまった。
「お前はいいよな、約束すっぽかして怒られる女はいなくなっちまったもんな」
彼は言い終えてすぐに「ごめん、俺、いらいらしちゃって、その、美佐ちゃんのこと、言うつもりは・・」と付け加えた。
「いや、いいよ、わかってる」
僕は自分の机を片付けもせずに、会社を出て電車に乗り、自分の駅で降りた。そして駅前の居酒屋に入り、ほぼ一年ぶりの−美佐子が亡くなって以来の−酒を飲んだ。
以前、美佐子と一緒によく食べたものと同じ料理を幾つか頼み、それを食べながら、今とは全く異なっているに違いない、「美佐子のいる生活」を思い浮かべていた。
すると僕の隣のテーブルに、四十代後半位の夫婦らしい二人が来た。「あたし、居酒屋って、一度来てみたかったのよ。それに、洋一が、ここの料理は特においしいって言ってたのよ」と女性はうきうきした様子で話していた。
「はっは。そうか。それじゃあ今日は、あいつのお気に入りの料理とやらを食べさせてもらおうか」と言って彼はビールを一本注文した。
楽しそうに話す二人を見て僕は、美佐子がもし、まだいてくれたとしたら、きっといずれは僕たちも隣の二人のようになれたはずだ、と思った。
ほろ酔い加減になった僕は、勘定を払って店を出た。ロータリーの真上には星がまたたいていて、空気はひんやりとして冬独特の匂いがした。しばらくぶりの酒のせいか、それとも美佐子への決して届かない、やりきれない思いのためか、僕は少しくらくらして、体中の力が抜けたような感じがした。家まで二十分ほどの道のりを星を眺めながら帰るという最初の考えはやめて、僕はタクシー乗り場に並んだ五、六人の後ろに続いて並んだ。
そして僕は、ロータリーの丁度反対側に佇む、例の東の窓の彼女に気づいた。
思わず僕は、並んでいた列を離れて、彼女のいる方へとロータリーをまわった。今の自分を話せる相手が欲しかった。彼女なら聞いてくれそうな予感がした。
彼女は、寂しそうに星を眺めていた女性とはまるで別人のように見えた。その横顔には少しの暗さも感じられなかったからだ。きっと何か、彼女を良い方向へと向ける出来事があったに違いない。僕は思い切って彼女に話しかけた。
「こんばんは。冷えますね」
すると彼女は、長い髪に手をやりながら、笑顔を上に向けて、「でも、星がきれいだわ。冬だから」と答えた。
僕はさらに聞いてみた。自分でも、何を言っていたのかよくわからなかった。
「あの、あなたはいつも、星を見ていた。寂しそうに」
彼女は不思議そうに、でも無邪気な好奇心とでも呼べる表情を僕に向けて言った。
「あら、そういうあなたは、どこの誰さんなのかしら?」
やはり、彼女の表情こそが、僕がいつのころからか抱いてきた『女性』のイメージそのものだったことを思い知らされた。でも、だからこそ、『理想』はあくまでも『理想』なのだということも同時に理解した。僕はその瞬間でさえも、美佐子−『理想』のイメージとはかなり違う−の表情を忘れることなどできなかったからだ。立派な文学作品と、何回も読み返すお気に入りの本との違い、といったところだろうか。
「ええと、僕は、あなたのマンションのすぐそばのアパートの者で、その、窓からあなたの姿が見えたもので・・いつも寂しそうだったから・・。でも、今はもう元気そうだ」
僕はそう言って無理に笑ってみせた。悲しいことを思い出させてしまったかもしれない。「あら」と彼女はまた髪に手をやりながら答えた。
「私は大丈夫よ。もう。区切りをつけたの、どう頑張ってみてもうまくいかない現実には。ごめんなさいね。知らないところで、あなたに心配かけていたのね」
僕は、何があったにせよ、彼女がもうすっかり立ち直っていることに安心して、小さなため息をついた。そんな僕を見て、彼女は微笑みながら言った。
「もっと前に、あなたと出会えていたら、きっと楽しかったでしょうね。あんなろくでなしと会う前に」
「え?」
何の話だろうと疑問に思い、彼女に聞こうとしたとき、だしぬけに一台の車がすうっとロータリーに現れた。彼女は小さな声で「お迎えだわ」とつぶやいた。次の瞬間、その車は二人の前に止まり、ドアが開いた。特徴の無い、車種もよくわからない車だった。
「あなたも、乗る?」と言って彼女は、僕を手招きしながら誘ってくれたが、すぐに運転席から、たしなめるような男の声が聞こえてきた。
「それはいけません。規則ですから」
彼女は肩をすくめて言った。
「ごめんなさい。今日は別のところへ帰るから。でも、あなたとお話しができて、本当によかったわ」
「いえ、いいんですよ、僕はたばこ、買って帰りますから」
彼女は申し訳なさそうに、首をかしげてみせてから車に乗り込んだ。そのときにもう一度、僕のことを乗せてはいけないかどうかを聞いてくれていた。ドアが閉まる間際に、運転手が彼女にこう答えているのが聞こえた。
「あの方も、近いうちにお乗せすることになっているんですよ」
動き出す車の中から、彼女は僕に、笑顔で手を振ってくれた。彼女を乗せた車は来たときと同じように、音も無く冬の夜の闇へと消えていった。僕はしばらくのあいだ、その場で、今日起こったことに思いをめぐらせていた。
やがて歩き出そうとした僕は、ちょうど彼女が立っていた場所で何かを踏んだ。それは赤と黒の二色で、おとなしめにデザインされたハンカチだった。彼女のものに違いない。 タクシー乗り場には三、四人しか並んでいなかったが、次の車が来そうもない様子だったので、僕はそれをポケットに入れると、早足で家に向かった。途中から走り出したが、すぐに僕は走るのをやめて、歩き出した。彼女が、今日は別のところに帰る、と言っていたのを思い出したからだ。それに僕の体が、今走ったおかげで、いよいよ一年ぶりのアルコールがまわってきたせいもあった。ハンカチは明日、届けることにした。
気分は全然悪くなかったが、眠気が僕を襲ってきた。僕はうつらうつらしながらなんとか家に向かって、真夜中の冬の道路を歩いていった。
翌朝、僕を起こしたのは東の窓から入ってくる太陽の光だった。
僕は布団をたたむと、彼女のハンカチを丁寧に洗った。次に僕の顔を洗い、コーヒーを飲んだ。そしてテレビでも見てハンカチが乾くのを待ってから、部屋を出た。 彼女の部屋のドアは開けっ放しになっていて、何人かの男の話し声が中から聞こえてきた。隣のドアが開き、主婦らしき女性が出てきたので、僕は彼女に聞いてみた。
「あの、何かあったのでしょうか?」
彼女は険しい表情で答えてくれた。
「昨日の夕方、お隣さんが屋上から飛び降りたらしいのよ。それで今、警察が調べてるの」
「ええ!」
彼女は待ってましたとばかりに話を続けた。
「何でも、原因は男らしいって。だいたいきれいな人の一人暮らしっていうのは・・・」
彼女の恋愛論は聞きたくなかったので、僕はすぐにそのマンションを出た。
頭が真っ白になったまま僕は、自分の部屋へと戻ってきた。でも、少したつと、次第に考えもはっきりしてきた。僕の頭の中では、昨夜、彼女が乗った車の運転手の言葉が思い出されていた。
『あの方も近いうちにお乗せすることに・・・』
そして僕は、近いうち、僕自身があの車に乗るときには、昨夜の彼女のハンカチと、やりかけのジグソーパズルを忘れずに持って行こうと思った。
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