Ume’s Short Stories:12

 

「ほら、もっとしっかりつかまるんだ」

俺は右腕を力いっぱい伸ばしたが、彼が俺の腕をつかむ力は頼りなく、いつ落ちても不思議はないくらいだ。

風は強くなり、雪が真横から吹きつけていた。
彼は何とか両手で俺のひじあたりをつかんではいたが、どうしても滑ってしまい、 少しずつ手首の方へとずれていく。俺は叫んだ。

「駄目だ、もっとだ、もっと強く握るんだ」

しかし彼は弱気な声で答えた。

「もう、いいんです。僕はもう、落ちて死ぬんです」
「何を言ってるんだ。俺が引っ張り上げるから、しっかりつかまるんだ」

夜がせまり、気温は下がる一方だった。
スキーなんかに連れて来るんじゃなかった。俺は後悔していた。が、彼の頼みを断るわけにはいかなかった。

彼の最後の頼みを。

それを知ったのは一週間前の夜だった。
リョウコと二人の夜だった。
俺が待ち合わせ場所の喫茶店に入ると、奥のテーブルにリョウコはいた。

「今夜は何て言って出てきたんだい?」

彼女は無表情のままこう答えた。

「もうやめたの。彼と一緒に暮らすの。来年の結婚も」

「え、ばれたのか?俺と会ってること」

「ううん、違う」

「それじゃあ、どうして」

「彼、長くないの。このあいだ、会社で倒れたでしょ。あのとき受けた検査でわかったのよ。もって半年だって」

「何だって」

「彼に言われたの。別れた方がいいって」

それまで、どこを見るともなくぼんやりしていたリョウコは、きつい視線を俺に向 けて言った。

「ねえ、私たちがあの人を殺すようなものよ。きっとそうよ」

俺は何も言い返すことができなかった。

「私たち、あの人を裏切ってきた。こうして隠れて会ってきた。私、あの人に謝りたい」

「何言ってるんだ」

しばらくのあいだ、二人は黙ったままだった。まわりのテーブルから、幾つもの話し声が聞こえてきた。

彼女の言うとおりかもしれなかった。俺は妻子ある身でいながら彼の恋人であるリョウコと一線を越えてしまったのだ。別に何があったというわけではなかった。ただ俺の誘いに彼女がのっただけのことだった。俺には家庭を捨てる気はなかったし、 彼女にしてみてもそれは遊びであり、二人とも『今のうちだけだから』という気持ちで会い続けてきたのだ。

彼に罪悪感を感じながらも、俺は快楽を追求する道を選んだ。『今のうち』だからこそ、彼女を少しでも独占したかった。俺は、彼に残業を命じてまでもリョウコと一緒に過ごしたことさえあった。

その彼がまさか、いなくなってしまうとは。

「もう、終わりにしましょう」

そう言い残すと、リョウコは一口も飲まないままのコーヒーを残して去っていっ た。
そして、彼女は会社からも去っていった。




「突然で申し訳ないのですが、辞めることにしたんです。最後まで迷惑かけてしまって本当にすみません」

リョウコから俺とのことを聞かされていない様子なのでほっとはしたものの、俺は内心穏やかではなかった。

「そうか」

そう答えることしかできずにいると、彼の方からこう言ってきた。

「できることなら、この冬の課内旅行で主任みたいにきれいに滑りたいんです。ぜひ 教えてください」

穏やかな表情でそう頼まれた俺は、とても断ることができなかった。死を告げられた人間が普段通りに振る舞えるのには正直言って驚いたが、もちろん顔にはださなかった。

隣の席でやりとりを聞いていた彼の同期が後でこんなことを言ってきた。

「主任、あんなにうまく滑れて気持ちいいでしょう。ぜひ教えてやって下さいよ。あいつ、もうすぐ辞めちゃうから、これが最後の課内旅行なんですよ。主任、スキー教 えるのうまいじゃないですか。俺も主任のおかげで滑れるようになって、恥かかないですむようになったし」

そんなことを言われなくても、彼のためにできることがあるなら何でもしようと決めていた。

「それにあいつ、リョウコと別れちゃったみたいだし。主任からもはげましてやって下さいよ」

俺はその言葉に何も答えられなかった。

旅行当日の早朝、彼は集合時刻になっても駅に現れなかった。彼以外の参加者は全員そろっており、荷物を一か所にまとめ、自動販売機のコーヒーなんかを飲みながら 雑談していた。
俺はどう教えれば彼が短時間で上手に滑ることができるかを考えていたが、列車の発車時間が近づくにつれ、このまま彼が現れず、彼の姿を見ないで今日一日を過ごすことができればどれほど気が楽になるだろうかと、ふと考えてしまった。

「あいつ、あんなにはりきっていたのに。何かあったんですかね」

まさか、予想以上に早く病状が悪化したのか、それとも・・・。

「電話はしてみた?」
「はい。でも誰もでないんですよ。どうします?」

もう待ってはいられない時間だった。

「そうか、仕方ない。出発しよう」

ホームへと向かうみんなの一番最後を歩きながら俺は、リョウコに電話をかけてみた。が、呼出音が聞こえてくるだけだった。何回も何回も。

「どうしたんですか主任、さっきからずっとぼんやりしちゃって。きっとあいつ、急に都合が悪くなったんですよ。彼がいなくて残念ですけど、せっかく来たんだから楽しまなくちゃ」
「それもそうだな」

現地に着いても俺はしばらくのあいだ、板も着けずにレストランで一人じっとしていた。
そのときだ。

「すみません、遅れました。朝乗ったバスが接触事故にあっちゃいまして。さあ、早く教えてください、行きましょう!」

見るかぎり、具合などこれっぽっちも悪くはなさそうだったし、俺に対する態度も 前と少しも変わっていなかった。

「よし、行くか」

早速ゲレンデに出てみると、彼は少々おぼつかないながらも、基本はマスターして いるようだった。

「もっと高いところに行きましょうよ」

彼はさらに高い地点を指さして言った。

「よし、でもあっちは危ないんじゃないか?」
「大丈夫ですよ、行きましょう」

生き生きしている彼を見ていると、昔を思い出した。スキーをやり始めた頃、ちょっと滑れるようになると、すぐに高いところや複雑なコースに行きたがったものだ。うまく滑れても、滑れなくても、また次の機会を待ち遠しく思ったものだ。

しかし、今の彼にはもう『次』は無いのだ。俺はためらうことなく彼の望むコースへと向かうことにした。
新しいコースへ行き、彼が俺の教えた通り、いや、それ以上にうまく滑り、さらに 上のコースへと移る。そんなことを何回となく繰り返した。彼の異常な上達ぶりに、 もしかして下手なふりをしていたのでは、などと想像していたとき、俺は天候が悪く なっていることに今さらながら気づいた。早く戻らないとみんなとはぐれてしまう。

「よし、もう戻ろう!」

ちょうど滑り出した彼に大声で叫ぶと、彼は俺のほうを振り向いて

「ほら主任、こんなにうまく曲がれるように・・」

と、そこで転んで姿が見えなくなってしまった。

慌てて彼の消えた方へ向かうと、驚いたことにそこは崖になっていて、落ちる寸前 のところに彼は倒れていた。
さっきまでの青空はすでにどこかへいってしまい、あたり一面、どんよりとした雲で覆われていた。

彼が倒れている斜面は三メートルくらいしか無く、その先はまさに百メートルはあろうかという崖だった。俺は近くの丈夫そうな木の根本を左手で握り、右手を差し出 したのだった。
半ば諦めてしまっているような彼に困惑している俺におかまいなしに、雪が真横から吹きつけてきた。

「こんなとこで死んでどうするんだ」

「いいんです、もう、助かってもしょうがないんです」

「何てこと言うんだ」

彼の言う通りなのかもしれない。でも、俺はどんなことをしても彼を引っ張りあげ て、土下座でも何でもして彼に謝るつもりだった。

「いいか、俺は、お前に謝りたいんだ」

彼は意外にもこう答えた。

「ああ、リョウコのことですね」

あやうく緩めてしまいそうになった力を引き締めて俺は聞いた。

「それじゃあお前、知ってたのか」

「はい」

そう平然と答えたが、彼が握っているのはもう手のひらまでずれてきてしまった。

「俺が憎くないのか?」

「ええ、憎いですよ。主任と、リョウコ。二人とも」

俺は叫んだ。

「じゃあ、こんなところから出て、俺とリョウコに復讐してから死んだらどうだ」

俺はどんな報いでも受ける覚悟だった。しかし彼の答えは驚くべきものだった。

「ああ、リョウコにはもう、しましたよ。それで今朝、僕は遅れたんですよ。明日の新聞でわかりますよ。リョウコがどういう死に方をしたかはね。だからもう、いいんですよ。僕はここで終わるんです」

「じゃあ俺は?俺はどうするんだ?どうせ死ぬならここから助かって、俺も殺してみ ろ!」

「いや、もういいんです」

「どういうことだ?」

「あなたが僕より先に死んでしまっては駄目なんです」

「え?」

「だって、主任が先に死んでしまったら、僕が化けて出る相手がいなくなってしまう じゃないですか」

彼は自ら手を放し、雪の中へと吸い込まれていった。

俺は、そのときの彼の手の感触と、彼が落ちて行くときの今まで俺にみせたことの無い、意地悪そうな、そして自信に満ちた表情を忘れることができない。


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