Ume’s Short Stories:11

再会、そして

 

 ある晴れた休日の午後、僕は臨時ニュースばかり流しているテレビを消してマンションを出た。彼女が残していった彼女の必要としない物と、「出て行く」というだけの内容が便箋に延々五枚にもわたって書かれた置き手紙のある部屋にはいたくなかったからだ。

 部屋の鍵をかけ、階段を降りて自転車置き場へと向かう。そこには僕と彼女の自転車がいつもの通り、仲良く並んでいた。
 僕は自分の自転車を引っ張り出し、近所の公園へと向かった。
 小さなあくびが出た。眠いのだけれど、もしすぐに部屋に引き返してベッドに入ったとしても、眠れそうにはなかった。

 大学で知り合って以来七年間つきあい、そのうちの二年を、結婚こそはしなかったものの、都心からそう離れていないマンションで一緒に暮らした相手が昨日出て行ったのだ。 最後の言葉は「いってらっしゃい」だ。昨日は僕だけが出勤だったから。そして置き手紙の文章には「お互いのため」という言葉が何度となく出てきた。 さっぱりわからなかった。僕は彼女との生活に何の疑問も抱かなかった。しかし彼女は出て行った。 僕は彼女のことを何一つわかっていなかったのだ。

 とにかく、部屋を出たかった。

 僕はマンションから三十分ほどの場所にある公園への道のりを進み始めた。 休日の空は青く、澄んでいた。二月にしては、幾分日差しが強く感じられる午後だった。 突然、僕の前方三メートルくらいのところを、黒猫が左から右へと横切ったかと思うと、ほとんど同時に右側から飛び出してきていた真っ白な猫も僕の前方を横切っていった。
 これは珍しい体験をしたものだと僕は思った。と同時に、七年つきあった相手が「いってらっしゃい」という言葉を最後にどこかへ行ってしまったというのと、どちらが珍しいことなのだろうか、とも考えた。
 何かが僕の身に起きるとしても、それは別にかまわなかった。ただ、悪いことであろうと、良いことであろうと、何かが起きるのならばもう少し先、せめて公園のベンチに腰掛けて、自分の気持ちの整理ができてからにして欲しかった。
 何の考えもまとまらないまま、僕は公園に着いた。歩いてひとまわりすれば二〇分はかかるのではないかと思われる、けっこう広い公園だった。

 よく晴れていることもあってか、家族連れの姿が目立った。僕はまず売店へ行き、缶ビールを一つ買った。
 横長のベンチに一人、大きく座り、ボール遊びなんかをしている何の憂いも無さそうな、それどころか将来の明るい希望とか、そんな言葉が当てはまるような人達を眺めながら僕は缶ビールの口を開けた。
 頭上を見上げれば、吸い込まれそうな青い空があり、これからどこかで航空ショーでも行われるのか、幾つもの飛行機雲が見えた。
 ただ空が青いだけなのに、これほどきれいに感じることができるのは不思議だと思った。本当はそんなことに感心している場合ではないということはわかっていたが、どうしても考えが今回の出来事には向かなかった。

 正面きって事実と向かい合うのが怖いから。「お互いのため」という彼女の言葉が正しいから。考えるのが面倒だから。そのどれもが正しいような気もしたし、どれもが違うようにも思えた。

 僕は缶ビールを飲み、楽しく休日を過ごす人達を眺め、時折、青く澄んだ空に目をやった。
 そうしているうちに、僕はついうとうとしてしまったらしい。太陽も西へ傾いており、冷たい風が吹いていた。
 日の沈む方角のオレンジ色が、東へゆくにつれだんだんと深い青になっていた。
 誰もいなくなった公園で、僕はただ一人夕暮れどきの空を見上げていた。星が幾つか見え始めていた。
 今朝から今まで、さっきの缶ビール以外何も口にしていない僕の腹が、ぐう、と鳴った。 誰もいないマンションに戻ることもないし、自分で夕食の支度をする気も無かったので、どこか外で食べて帰ることにした。
 公園を後にした僕は、昔住んでいた実家方面へと自転車を走らせた。もちろん、親にはまだ彼女が出て行ったことは知らせていない。だから実家に行こうとは思わなかった。
 そのかわりに僕が行こうと思っていたのは、昔よく通った、実家のすぐ近くにある小さな洋食屋だった。
 僕はその洋食屋の店内の様子や、奥で調理するマスターと、できあがった料理を運んでくれる愛想のいい奥さんの姿を思い出しながら、自転車のスピードを上げた。そして、いつも必ず迷ってしまった魅力あるメニューの数々も思い出しつつあった。
 昔来たときと比べて、どことなく落ち着かない雰囲気の商店街を通り抜けると、その洋食屋はあとほんの少し、二、三分の距離だった。
 僕は視界にその店をとらえるとすぐに、急ブレーキをかけた。
 店のあかりがついていなかったのだ。
 ささやかな楽しみを奪われた僕は、苦笑いしながら自転車を降り、向きを変えた。
 そのときだ。僕がマキの家の門の前にいるということに気づいたのは。ここは確かにマキが旦那と住んでいる場所だ。小さくて、立派なつくりとはいえないが、一戸建だった。フジサワマキは僕の幼なじみで、実に幼稚園から高校までを一緒に過ごした仲だった。 砂場で落とし穴を作って遊んだり、遠足に行ったり、ブラスバンド部で地区大会に向けて練習したりと、高校までの生活を振り返るとき、いつも必ずそこにいるような存在だった。 幼稚園や学校生活だけではなく、家が隣で親同志も気が合い、一緒に旅行に行ったり、家族ぐるみの付き合いをしていた。

 マキは、まるでモデルのように整った、それでいて暖かみのある顔をした女の子で、いわゆる「美人」ではあったが、モデルになるにはもうひとつ背が足りなかった。まあそんなことはどうでもいい。そんな彼女と、中学、高校あたり、仲良くしているように見られて冷やかされたりもしたが、特別な感情は持っていなかった。というより、兄妹のような感情しか持っていなかったのを思い出す。僕がのんびりしたところがあり、マキが面倒見のいい性格だったから、どちらかというと姉と弟、といったふうだった。
 さすがに高校卒業後の進路は別々となり、僕は地方の大学に進学することになり、会う回数もめっきり減った。
 僕は子供の頃からのマキの顔を思い出すことができるのが嬉しかった。何というか、彼女には昔から、どこか人をほっとさせる能力があるように思えてならなかった。それは彼女の話し方であったり、歩き方、ちょっとした仕草一つ見てもそう思えた。もちろん、その笑顔が一番暖かいものであったのは言うまでもない。高校までの間、つらい出来事も確かにあったが、全体的に穏やかな印象として僕の記憶に残っているのは間違いなくマキのおかげだ。
 大学に通うため実家を離れることになった前の夜、確かこんな会話をマキとしたっけ。「ずうっと一緒っていうわけにはいかなかったね、私達。大学行ったら、彼女つくるのよ」「うん。マキもな。あと、思うんだけどさ、きっといい嫁さんになるよ」「えへへ、そうかしら。ありがとうね」
 結局マキは大学を出て、就職先で知り合ったセキグチなんとかいう、僕とは全く違ったタイプの、がっちりした相手と結婚し、この、なじみの洋食屋のすぐそばで夫婦で暮らしているというわけだった。

 あかりのついているマキの家を向いて、昔通りの笑顔のマキを思い浮かべてからその場を離れようとしたそのとき、僕の目がとらえたのは予期しないものだった。
 それは「フジサワマキ」と書かれた表札だった。 何故「セキグチマキ」ではないのか?まさか・・・。

 表札をじっと見つめていた僕の問いに答えるかのように、玄関のドアが開いた。とことこっと、昔と変わらない、かわいらしい歩き方で出てきたマキは、まず、不審そうに夜空を見上げ、次に顔をこちらに向け僕に気づき、最初は珍しい物を見るような目をしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべてくれた。そして僕のすぐそばまで来てから言った。
「マーくん」
「元気だった?」

「うん・・・」
 一瞬戸惑った様子のマキは、照れくさそうに言った。
「あたし、いいお嫁さんになれなかったの」
「え?」
「表札、見てたでしょ。もうあの人、いないの」
「別れちゃったの?いつ?」
「もうだいぶたつの。まだ何とかなると思って、いろいろ考えてたんだけど、もういいの。どうにもならないみたいだし。全部、もう終わっちゃうんだから」
「もう、あきらめちゃったの?」
 僕が聞くと、マキは笑った。昔のように。
「あらやだ、マーくん、まさか、知らなかった?」
 まるで地を這うように、サイレンの音が街中に響き渡り始めた。
「ミサイルよ。核ミサイルが飛んでくるのよ。東京に向かってるって。朝から臨時ニュースでやってたじゃない、交渉決裂のこと」
 僕は思わず吹き出してしまった。別にあまりの出来事に気がふれてしまったわけではない。僕は不思議そうな顔をしているマキに、説明した。
「だってさ、二人とも昔のまんまだと思って、おかしくて。僕はいつもマキに言われっぱなしだったじゃないか。簡単な漢字忘れてしょっちゅう聞いたときとか、試験範囲間違えて必死に勉強してたときとか、公式を知らずに強引に問題解こうとしてるの見られたときとか、学校の駐車場にある担任の車の運転席をのぞき込んで『エンジンブレーキってどこについてるんだ』って聞いちゃったときとか、いつもさっきみたいにマキ言ってたよ、『まさか、知らなかったの?』って。また同じこと言われて、やっぱり変わらないなあ、って思ってさ」
 マキも笑いだしていた。
「そうね、おんなじね、私達ったら」

 サイレンの音はだんだんと大きくなってゆき、さっきにもまして通りには慌てふためいた人達があふれてきたようだった。 そんな辺りの様子にはおかまいなしに、マキはなにやらニヤニヤしていた。そして、「それじゃあ」 と言ってちょっと首をかしげて考えるそぶりをみせてから、背伸びをし、僕に顔を近づけて
「違うことしてあげる」
と囁いてから、僕にキスを、すぐには終わらないキスをしてくれる。
 そして、東京方面の空に閃光。
 僕はマキと抱き合い、体中が熱くなるのを感じながら、こうして終わることができるのは幸せなのだろう、と思う。


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