Ume’s Short Stories:1

ハッピーエンド

 

「お待たせしました」

 その日の夕方、紀子のその言葉と一緒に、小じんまりとした店の小さなテーブルに、この店の常連である成田と僕のスパゲティが並べられたとき、僕は、いつも通りのジーパンにTシャツという彼女に、一目惚れとは言わないが、正直言って彼女の親しみのある笑顔に心を打たれた。できれば他の客にはその笑顔を分けないで欲しいとさえ思った。
 そしてそのときの客は僕ら二人だけだった。
 自分はまだあまりうまくない、出来る限りの笑顔をつくってみせた。すると彼女は、
「今日初めていらっしゃったんじゃない?成田君のお友達?」と聞くので成田は答えた。
「うん、そうなんだ。と言っても二日前に知り合ったばかりなんだ」
「へーえ、どこで知り合ったの?」
「映画館なんだ。一人で映画見に行ったらさ、隣に彼がいて、それで、ええと確か、その映画の監督の事かなんか、話しかけてきたんだよ。そうだったよね」
「うん、そうなんだ」

「へえ、こちらさんも映画が好きなんだ」

 そのとき、カウンターの奥にいたマスター−と言っても五十は過ぎていたが−がきつくこっちを振り向いたことに僕は気がついた。
 彼女は成田に聞いた。

「それで、何ていう映画を見に行ったの?」
「クローネンバーグの新作なんだ。ほら、カズオが好きだった監督の・・・」
 その返事をした本人の成田は気まずい表情になり、マスターは鍋の湯を思い切り音と湯気をたててとりかえ、その後のほんの何秒間かの時間が一時間にも思えるほどゆっくりと過ぎていった。

 静けさを破ったのは紀子のあっけらかんとした無邪気な声だった。
「ああ、カズオの好きな監督でしょ、あのひともきっとその映画見るんだろうな。新作が来るたびにすぐに見に行ってたから」

 マスターと成田は困った顔で、生き生きと喋る紀子を見ていた。
「あ、でもあのひと、今アメリカにいるからもうとっくに見てるかもしれない。きっとそうよね、そう思わない?」
と突然僕に向かって問いかけるので、僕はとりあえずうなずいた。
「まったく、あのひとが日本にいた頃はよく連れていかれたのよ。その監督の新作がくる度に。新作じゃなくてもどこかでかかれば見に行ったものよ。あたしには難しくてわからないところもあったけど、あのひとがわかりやすく説明してくれるの。そんな、好きなことを夢中になってあたしに説明してくれるカズオを見てるのが好きだった。もちろん、話もちゃんと聞いてたわよ」
 僕は久しぶりのトマトソースのスパゲティを少しずつ食べ始めていたけれども、成田は手をつけずに、あきらめの表情でじっと紀子を見つめていた。
「ああ、早くあのひと帰って来ないかな。そしたらまたいっしょに映画とかに行けるのに」

すると、成田が突然立ち上がって言った。

「何度言ったらわかるんだ、もういないんだよ、もうカズオはいないんだ。葬式にも行ったじゃないか。もうアイツはこの世にはいないんだよ。いつまでもアイツのこと想っても仕方ないこと、わかるだろ、わかってくれよ。自分の思い通りにいかないことだってあるんだよ、つらいだろうけど」

 それでも彼女は、きょとんとした茶色い瞳でポツリと言った。
「カズオ、いつになったら帰って来るのかな」

 しかめっ面で、空になった僕の皿と、せっかくのスパゲティを残した成田の皿を片付けるマスターと、何事も無かったかのようにテーブルをせっせと拭く紀子を残して僕は、ふさぎこんだ成田と一緒に店を出た。

 

 雨ばかりのうっとうしい日々から何日か過ぎて、さっぱりした涼しい風が吹いていたにもかかわらず、空には一つの星も見えず、灰色の雲が広がっていた。
 成田がぼそっと言った。
「嫌な天気だな。降るんだか降らないんだかはっきりしない。二、三日前なんか、もの凄い夕立が降ったけど、その後にきれいな虹が出てたよな」
「そうだな」
 しばらく二人とも無言で歩いていたが、ふと成田がこう言った。
「おごるから、ちょっとそのへんで飲んでいかないか」
 僕はこのところあまり飲んでいなかったので行くことにした。

 

「やっぱり久しぶりのビールはうまいなあ」
 活気のある居酒屋で、他の客の話し声や、店員の声に負けず、ほろ酔い気分の僕は何回となくそんなことを言っていた。
「そうだろ、そうだろ。ほんと、毎日嫌なことばかりで、飲まずにはいられないよな」

 そう言う成田に僕は、思い切って聞いてみた。
「嫌なことっていうのは、さっきのこと?」
「えっ?」
「ほら、さっきのスパゲティ屋の」
「ああ、あの店も大変だよな。あの店のマスター、店を継げるだけの見習いがなかなか来ないっていつも嘆いているし。いつも自分の味は他の奴にはだせないって言っていたけど、本当は根性のある奴に見習いをさせて、マスターを越えて欲しいと思っているんだろうな。マスターもいい年だし」
などとごまかしていたが、そのうちに本音を言い始めた。
「まったく、紀子は、どこかおかしくなっちゃって見てらんないよな。二、三年前にカズオが飛行機事故で死んだっていうことを認めようとしないんだから。認めたくないんじゃなくて、本当に、本気で、いつか、帰って来ると思っているんだよ」
 ここでため息をついて彼はゆっくりと言った。
「もう気づいていると思うけど、オレ、あんたには何故か何でも話せそうだから言うけれど、オレ、紀子のこと、好きで好きでたまらないんだ。もちろん、知り合った頃はカズオとしあわせになって欲しいと思っていたよ。ただ、もう、ああなった以上、いいかげんこっちを振り向いて欲しいんだ。でも無理みたいだな。オレ、ずっとこのままだったら、何だかやりきれなくて」
 僕はそんな成田に声をかけてやることなど出来ず、ただ空になった自分のグラスにビールをついで飲むだけだった。

「もう、死んでしまいたいくらいだ」

 成田がそんな言葉を口にしたので(かなり酔いがまわっていたのかもしれないが)僕は、とりあえず店を出ようと言って、彼を人気の無い公園に連れて行き、殺した。

 そして、ここへ来る途中に寄った大きな虹に住んでいた妖精に教えてもらった秘術で、成田の魂の中身をそのあたりに捨て、かわりにここへ来る前までの僕の記憶をコピーして入れてやった。こうしてその魂を送り返してやれば、天国では僕が下界にいることに気づくまい。

 やれやれ、これで苦労して神様に見つからずに天国から抜け出してきたかいがあったというものだ。普通、天国に来た者はそのあまりの居心地の良さに、薄汚れた下界のことなど忘れてしまうが、やっぱり僕は、紀子と一緒にいたいし、まして紀子を忘れることなど出来るはずはない。たとえこんな、住みにくい下界ででも、僕は紀子と暮らしていきたいのだ。
 さて、問題はこれからこの、前と違う姿の僕−いくら何でも前と同じ姿で来るわけにはいかなかったから適当に自分で作ってみた−のことをどうやって説明するかだ。

 ま、じっくり考えるとするか。それほどあせることはない。
 それにしても成田は馬鹿な奴だ。思い通りにいかないこともあるんだ、なんて偉そうに言ったりして。この通り、思い通りにいくこともあるんだってことがわからなかったんだろうな、きっと。
 僕はそんなことを考えていた。

「おい、いつまで鍋の前に突っ立っているんだ!麺が溶けてなくなっちまうぞ!」
 ちょっと厳しいけれど、裏には期待をこめて、一から店のことを教えてくれるマスターに叱られる僕をちらっと見て紀子は、テーブルを片付ける手をちょっと休めて、Tシャツにジーパン姿で小さく笑っていた。


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